廃墟 若人のひろば(2)

カテゴリ:廃墟  地域:関西

その1
の続き


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こちらが入り口。
先ほど入ったのは出口だったようだ。


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食糧不足時の食料の調理方法

当時の食料状況では、
国民1億人に対して3000万人賄うのがやっとだったらしい。


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「イモのツルまで食べた。悲しく、惨めだった。」

食料がなく、バランスも悪かったのだろうな。


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廃墟の時計はつい撮ってしまう。
彼は1時58分まで生きた。


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「芋ではないほんとうの飯を腹一杯たべたい。」

今の日本人には分からないが、とても響く言葉。
いつから日本は食料を大量に廃棄する国になったのか。


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鎖で囲まれた中央に砂場がある。
ここには何が展示されていたのだろうか。


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「いくさに死することは 美しきかな」

当時の日本人は戦場で死ぬことに美学があった。
決して正しいとは思わないが、彼らの信念は重かった。


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春雷の歌

26歳で戦死した兵士の歌。


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なぜか合わせて展示されていた
風力発電の仕組み
この建物で行われていたのかな?



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展示スペースとはまた別のスペース。
奥の方に重厚な扉がある。



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扉の奥は
上映設備があった。
戦争の資料映像が上映されていたのだろう。


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そばにあった部屋。
イスやガラスケースが並んでいた。


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展示用のガラスケース

ここにはどんな展示品が並んでいたのか。


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展示品に貼られていたプレート。
プレートも一緒に持っていけばいいのに。


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こちらにもプレートが並んでいた。
こういうのを見るとますます展示品が見たくなる。


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この部屋も自然光が入り、明るい構造になっている。
この建物は非常にエコな造りだ。


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再び部屋を出る。
アコーディオンカーテンは骨だけになっていた。


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奥には展示スペースが見える。
入口からの眺めはこんな感じだったのだろう。


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先ほどの砂場のようなもの。
奥の板で塞がれているのだ本来の入り口。


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この建物は地下もあった。
地下へと進んでみることにする。


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ここはおそらく
職員の当直室

2段ベッドが並ぶ。


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小さなキッチンも備えられていた。
そんなに街から遠い場所でもないだろうに、
なぜ泊まる必要があったのだろう?


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1階にあった展示品。

風力発電の説明があった。


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トイレなど。
地下1階は主に職員のスペースになっていた。


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さて、そろそろ建物を後にすることにしよう。


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上の階を通って戻る。
相変わらず屋上は草がボーボー


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こちらが本来の入り口。
先ほどの板の向こう側。


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建物の全景。
どうやら本来の入口はこちらだったのかも。
入場料はいくらだったのかな。



というわけで
若人の広場
戦争資料館が廃墟になってしまうという、
あってはならないことのようだが、

このような場所であるよりも、
立命館のミュージアム
展示されていたほうが見る人は多いのかもしれない。




    


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